2024年3月28日

印象派誕生、150周年

 印象派の画家たちのサロンが初めて開かれたのは、1874年4月15日。今年は150年記念の年。それをお祝いする行事が、印象派にゆかりがある様々な地で行われています。その数は200という。そのもっとも重要なのは、約150点の作品を展示しているオルセー美術館。

150年前、当時まったく無名だった画家たちが集まって開催したグループ展は、オペラ座から近い所にあった写真家ナダールのアトリエでした。多才な彼は若い芸術家たちへの支援を惜しまない人だったのです。

キャプシーヌ大通りにあったナダールのアトリエ。
1階がお店で2階がアトリエ。


クロード・モネの「キャプシーヌ大通り」

このサロンに参加した画家は約30人。モネ、ルノワール、ドガ,ピッサロ、シスレー、セザンヌ・・・・今では蒼々たる画家ばかり。

展覧会のパンフレット。

ルネッサンス期から続いていた古典主義は、テーマが歴史だったり、神話だったり、王侯貴族の肖像だったりし、一般の人とかけ離れていたし、構図にも決まりがあり教訓的な絵ばかりだった。そのすべてから脱出し、純粋に、率直に、あるがままの日々の生活や風景を若い画家たちが描くようになったのが、19世紀半ば。印象派の画家と呼ばれるようになった彼らの作品は、当然、非難の嵐を受けていました。けれども、自然や日常生活の瞬間的な動きなどを捕らえる眼と、それをキャンバスに表現する才能を評価する人が徐々に現れ、ついには、世界的な芸術となったのです。

明るい色彩、屋外の爽やかな光景、人生をたのしむ人々・・・それまでの、厳格な構図の硬い絵と異なる印象派の作品には、自由と、今を生きる喜びがみなぎっている。どの作品も刹那的な瞬間を描いていて、永久、不滅でないからこそ、心に深く響くように、私には思えます。

絵の中の花や木の葉は風に揺らぎ、雲は流れ、川や海の水には流れが感じられ、人々の笑顔から笑い声が聞こえてくるかのように、キャンバスの中で息づいてる。絵は、額の中に留まって壁に描けられているのではなく、それを目にする人と共に生きている。

印象派の名を生んだクロード・モネの
「印象・日の出」


この展覧会のパンフレットを製作したのは、画家オーギュスト・ルノワールの弟、エドモン・ルノワール。彼はジャーナリストであり美術評論家でした。エドモンはモネの作品のタイトルが「日の出」で単調すぎると解釈。そのようにモネに伝えると、それでは、と、モネがその場で「印象・日の出」とし、それが、伝統をくつがえした印象派の名の由来だったとされています。
エドモン・ルノワール(左)
兄、オーギュスト・ルノワール作、1877年

2024年3月24日

ヴァンクリーフ&アーペル、春の訪れを華やかにお祝い

寒かったり、暖かかったり、大雨が続いたり、台風に見舞われたり、気候の変化が激しい日々でしたが、やっと春らしい日になりました。それを、高級宝飾店ヴァンクリーフ&アーペルが、ゴージャスでしかも愛らしい花々でお祝い。春になった嬉しさを、皆で分かち合いましょうという思いが伝わってきて、心がホカホカ。マロニエの花が咲くのはまだ先だけれど、この花飾りを見ているだけで、とっても幸せ。

ヴァンードム広場全体に華やぎを放つ、
ヴァンクリーフ&アーペル。

大きくカラフルな花々に魅せられて、
多くの人が立ち止まります。

ブティックの前に花を散りばめたボックスがあるので、
そのエントランスにいるマドモアゼルに尋ねたら、
「この中でカメラマンが記念撮影をして、後でメールで写真をお送りするのです」
ステキなプレゼント。さすが老舗です。すべてデラックス。

ピンクの階段をのぼって、
カラフルな花たちに囲まれての記念撮影をしてくれるのです。
メルヘンの世界に入るような感じに、心が躍ります。


ショーウインドーにも同じ花飾り。
ジュエリーとのハーモニ―が格別。

2024年3月22日

シャンゼリゼ、心打つほど美しい夕焼け

 昨夜のことでした。快晴が続いているパリなので、久しぶりにシャンゼリゼをお散歩している時、ふと、空を見上げると、凱旋門あたりの空が真っ赤に染まっている。

パリで夕焼け? 

海辺ではなく、街のど真ん中、しかも、花のシャンゼリゼです。もう、感激どころではなく、身震いが止まらない。何と壮麗なことか。何と美しいことか。まるで、おとぎ話の世界を見るように、現実離れしている。こういうのを夢幻の世界というのでしょうか。

忘れ得ぬ光景です。

信じられないほど壮麗な夕焼け。

夕焼けの中でひときわの輝きを見せる凱旋門。

現実とは思えないパリの空。

この記念すべき日のために、コンコルド広場で記念撮影。
ここの夜景は何度見てもすばらしい。

2024年3月18日

近づくイースター、だから、チョコレートがいっぱい。

 イースターが近づいてきたから、きっと、楽しいチョコレートに出会える。そう思いながら専門店を見ると、期待通り、あちらもこちらも趣向を凝らしたチョコがいっぱい。今年は3月31日が復活祭の日。この前後は学校もお休みなので、大人もそれに合わせて長い休暇をとり、旅行に出かける人が多く、ヨーロッパ 中がまるで、民族大移動。パリで様々な国の言葉を耳にするのもこの時期。今日はアイディアあふれるチョコレートをお楽しみください。

圧倒的な人気を誇るのは、ウサギさん。
毎年大活躍。
メルヘンの世界の雰囲気がステキなディスプレイ。
チョコレートも一味違うように思えます。

表情豊かな動物のオンパレード。
イースターエッグはやはり花形。
それにしても目立って大きいエッグ。
本当のチョコレートで作ってあるのだから、びっくり。

ひしめき合っていて楽しそう。
仲間に入りた~い。

このままインテリアとして取っておきたいほど、
愛らしいウサギさんたち。いかにも春らしいカラーがいい。

おどけた表情が親しみやすい。
カカオがいっぱい入っていそうなチョコレート。
ちなみに、私が毎日いただいているのはカカオ95%

マンガの主人公のような顔のエッグ。
種類豊富で迷ってしまいそう。

親子そろってお出かけ?
ほのぼのとした家族愛に心がなごみます。

2024年3月15日

マリー・アントワネット自叙伝 23

女官選びは自由自在

王妃になった私は、マダム・エティケットこと、ノアイユ伯爵夫人を直ぐに解雇しました。当然です。そのときの清々しい気分は、 まるで春のさわやかな風が、全身を勢いよく走っているようでした。彼女はよほど悔しかったのでしょう、女官長の職を失うと、間髪を入れずに叔母たち側についたのです。デュ・バリー夫人に声をかけてから、私の敵になった、あの嫌な叔母たちです。性格が悪い同士でさぞかし気があったことでしょう。


でも、今や私はフランスで最高の地位にいる女性。怖いことなど何もありません。王妃になって何もかも自分の思い通りにできるので、うれしくて仕方ありませんでした。服装もヘアスタイルも好きなようにし、宮廷の伝統などもできるだけ無視。例えば,起床の儀式や長い公開食事も、可能な限りはぶくことにしました。


当然、女官長も自分で選べるのです。貴族夫人がまわりにたくさんいましたが、その中から選んだのがランバル公妃。育ちの良さがあふれる、おっとりした性格の女性です。イタリアのトリノの名門貴族の家に生まれたマリー・テレーズ・ルイーズさまは、フランスの由緒ある高位の貴族ランバル公ルイ・アレクサンドルさまと結婚しました。けれども不幸なことに、翌年、公爵が亡くなりランバル公妃は若くして未亡人になってしまったのです。温厚な性格で優しさがある美貌のランバル公妃は、信じられないほど私に忠実で、最初の内は大満足でした。

育ちも性格もいいランバル公妃。
私に忠実で、全面的信頼を置けるプリンセス。

でも、刺激が好きな私は、おとなし過ぎる彼女に、日に日に物足りなさを感じるようになったのです。そうしたときに現れたのがポリニャック伯爵夫人でした。魅惑的な華やかな美しさを持つポリニャック伯爵夫人は、経済的にあまり豊かでなかったパリの貴族の家に生まれ、子供時代はヨランド・マルティーヌ・ガブリエルと呼ばれていました。偶然にも生年月日がランバル公妃とまったく同じで、私より5歳年上。16歳のときに結婚した相手は、ブルボン家に長年仕えていたポリニャック伯爵でした。


ポリニャック伯爵夫妻はそろって貪欲で、贅沢な生活を好み、その上ものすごい野心家。目が覚めるほどの輝きを放つ美貌に加えて、活発でハツラツとした華やかなポリニャック伯爵夫人は、完全に私好み。彼女をとても気に入っていたので、私のお城、プティ・トリアノンに頻繁に招いていました。そこでポリニャック伯爵夫人と過ごす自由な生活は、どれほど楽しく貴重だったことでしょう。彼女をずっと傍に置いておきたくなった私は、ランバル公妃に宮廷から離れるよう頼み、ポリニャック伯爵夫人を女官長にしたのです。

華やぎのある美貌の持ち主、ポリニャック伯爵夫人。

夫人の夫、ジュール・ドゥ・ポリニャック伯爵。

ところが伯爵夫人はお人好しの国王に取り入り、公爵の地位を要求しただけでなく、あれこれ理由をつけて、多額のお金をくり返し要求するようになったのです。さすがの私も危険を感じるようになり、夫のお蔭てポリニャック公爵夫人になった女官長を遠ざけることにしました。いつの世にも、権力者をできる限り利用し、自分の財産を増やそうと試みる人がいるのです。いい人生勉強になりました。


というわけで、ランバル公妃を呼び戻し、再び女官長に任命しました。このようなわがままを快く許してくださった彼女を今まで以上に信頼し、ランバル公妃も私のためなら何でもという気持ちを表していました。私たちの間には強い絆があったのです。


服装にもうるさかったマダム・エティッケットを追い出した私は、モードに自分らしさ、王妃らしさを何とか出したいと思っていました。お金もたっぷりあるし、王妃の地位にふさわしい華やかなドレスが欲しかったのです。


そう思っていたときにシャルトル公爵夫人が、才能あるデザイナーを紹介してくださったのです。モードに関心が深く、いつもステキな装いのシャルトル公爵夫人は、パレ・ロワイヤルの豪奢な館に暮らしていました。シャルトル公爵夫人のお兄さまと結婚してランバル公妃になったのが、私の女官長になった人です。このように、貴族は貴族と結ばれていました。

オシャレが上手なシャルトル公爵夫人。
彼女のお蔭でモードに関心を持つようになったのです。


シャルトル公爵はブルボン家の分家、オルレアン家に生まれ、父君が亡くなったときに称号を受け継ぎ、後年にオルレアン公となります。妻になったルイーズ・マリーさまも、太陽王ルイ14世と公妾モンテスパン侯爵夫人の間に生まれた子供の子孫で、名門貴族の血をひいています。


センスがいいシャルトル公爵夫人は、自宅近くの洋裁店「オ・グラン・モゴル」が気に入っていて、そこでほとんどのドレスを頼んでいたのです。デザイナーであり経営者は、ローズ・ベルタンと名乗る独身女性。私より8歳年上なだけなのに、飛び抜けた才能があるだけでなく、洋裁店を経営するビジネスの手腕も持っている人。彼女を知ってから私は、すっかりモードの虜になってしまいました。

 

2024年3月11日

フランス、世界で初めて人口妊娠中絶権利が憲法に

3月4日、ヴェルサイユ宮殿における上院と下院の合同会議で、人工妊娠中絶権利が憲法に加えられることが決定。これは世界で初めてのことで、フランス女性たちの長年の努力が実った画期的なことでした。

ヴェルサイユ宮殿の南翼にある会議場には、890の議席があり、壁には戦争、農業、商業、工業、平和を表す絵が描かれています。

この会議の議長を務めたのは下院語長のヤエル・ブロンピベ。初の女性下院議長です。セミロングのヘアスタイル、ワンピースやカジュアルな服装で、まるで自由を愛する女学生のような雰囲気。

ヴェルサイユ宮殿内の議場。

フランスで人工妊娠中絶が合法化されたのは、1975年1月17日で、当時の厚生大臣シモーヌ・ヴェユが、この法案を起草。その後、1982年には人工妊娠中絶の費用が保険で払い戻されることになり、2024年3月に中絶の権利が憲法で守られることになったのです。

3月8日の国際婦人デーには、ヴァンドーム広場で法案を憲法に含めることを封印する儀式が行われ、マクロン大統領が微笑みを浮かべながら挨拶。拍手がパリの空に高らかに響いていました。式典にはシモーヌ・ヴェユのご子息も出席し、多くの女性たちから感謝の言葉を受けていました。

これは、まさに、フランス女性の長年に及ぶ努力の賜物。今後も女性の活躍が期待されるフランスです。フランス女性は本当に強い。

1789年10月5日、
パリの女性たちがヴェルサイユ宮殿へ押しかけ、
革命が加速度的に悪化。

ドラクロワの名作「民衆を導く自由の女神」

2024年3月9日

マリー・アントワネット自叙伝 22

戴冠式、プティ・トリアノン

ルイ15世が世を去って約1年後の1775年6月11日、夫が正式にフランス国王の座に就く戴冠式が執り行われました。その前日に豪華な馬車で向かったのは、パリの北東にあるランスという町。歴代のフランス国王の戴冠式は、ランスにあるノートルダム大聖堂で行われているのです。


フランスを含める広大なフランク王国の最初の国王クロヴィスが、6世紀にランスの教会で聖別を受けたのが始まりだそうで、この儀式を終えて正式に国王として認められるのです。もちろんクロヴィス国王の時代の教会はとても小さかったのですが、13世紀になると、ゴシック建築の立派な大聖堂になりました。微笑む天使の像がエントランスにある大聖堂です。


壮麗なカテドラルでの戴冠式はとても厳粛で華麗で、涙を抑えられないほどの素晴らしさでした。ノートルダム大聖堂は、ゴシックの美しさが十分あふれているのに、ルイ16世の戴冠式にふさわしくすべきだと、様々な装飾がなされていました。壁や柱はタペストリーで覆われ、それだけでも豪華なのに、居並ぶ貴族たちは金糸銀糸の正装。ご夫人方も煌びやかなドレスばかりで、まるで色彩の洪水。

壮麗な戴冠式がランスの大聖堂で執り行われました。
厳粛で華やかで、感動で涙が浮かんだほどでした。

夫は20歳で正式にフランスの国王になったのです。

戴冠式は国王のみが行うので、私は女官たちと2階から見ていました。祝福の言葉と塗油が数回繰り返され、ルビーやエメラルドが煌びやかな輝きを放つ冠を授かり、白テンを施したブルーのマントーをまとった国王が誓いの言葉を立派に述べたとき、身震いするほど感動しました。


その後、いつもの通り公開の晩餐会があり、それが終わると国王と私はお祝いに集まっている人々に挨拶するために、町中へと入って行きました。護衛兵はわずかでしたが、危険をまったく感じませんでした。誰もが笑顔と拍手で迎えてくれて、自分たちの国王夫妻を大歓迎していることを心身で感じていました。この幸せに満ちた日の出来事は、お母さまにすぐに報告しました。

私は女官や貴族夫人たちと
2階から式の様子を見ていました。

 

ルイ15世が逝去された1774年のことでした。つまり、ランスでの戴冠式の前年ですが、私が王妃になったお祝いに、夫が素晴らしいプレゼントをしてくださいました。ヴェルサイユ宮殿と同じ敷地内にある、こじんまりしたプティ・トリアノンです。それをいつか自分の別荘にしたいとずっと思っていたのです。でも、前国王が存命中はかなわないことでした。というのはプティ・トリアノンは、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人のために建築されたからです。残念なことにポンパドゥール夫人は、その完成を見ることなく世を去ってしまいました。ですからプティ・トリアノンは、その後愛妾になられたデユ・バリー夫人の館となったのです。でも、ルイ5世とデユ・バリー夫人はその館よりも、近くにある大きいグラン・トリアノンを愛用していました。そのために私がプティ・トリアノンを手にしたとき、ほとんど手つかずの状態だったのです。

ネオクラシックのプティ・トリアノン。
大きさにもクラシックな建築様式にも魅了されました。

自分の館であるからには、自分好みのインテリアをすることができる。それを知った私は、プティ・トリアノンの装飾に夢中になってしまいました。儀式、儀式のヴェルサイユ宮殿には、本物の生活はないのです。すべてが公開で、人々に見せる劇のような生活。毎日毎日王妃の役割を上手に演じなければならないのです。別邸があれば、そこでひとりの女性としての生活を楽しめる。護衛兵やうるさい監視役のいない普通の生活。それにどれほど憧れていたことでしょう。プティ・トリアノンを、あの、懐かしいシェーンブルン城のようにしよう、と私すぐに決心しました。


そうです。プティ・トリアノンを小シェーンブルン城にするのです。そう思うだけで興奮してしまいました。それからというもの、私は自分らしいスタイルを生み出すことに情熱の全てを捧げるようになりました。


 夫からプティ・トリアノンの鍵を受け取った時、びっくりしました。というのは、

「マダム、貴方は花がお好きです。これは余から貴方への花束です」

と言いながら渡して下さったプティ・トリアノンの鍵には、531個ものダイヤモンドが輝いていたのです。

これほど素晴らしいアイディアを持っている人だと、今まで思ってもいなかったので、急に夫への愛情が高まりました。内気で自分の心の内を開けない夫がデリケートな人だとわかって、とてもいとおしく思えました。私の前ではモジモジするばかりで、優しい言葉をかけてもらったこともなかったのですが、これで彼がいかに私を愛しているかわかりました。今後はもっと優しくしてあげなくてはと心で誓いました。女性は宝石に弱いのです。


ルイ15世の時代に建築されたプティ・トリアノンは、ネオクラシックで均整が取れた美しさがあるので、それ自体には手を加えないことにしました。そのかわり、中の装飾は思い切って私好みにしようと、最初から思っていました。


この館はプライベートな場なので、金箔などの豪華な装飾は、はぶくことにしました。壁には優しいカーブを描く花柄の装飾をほどこし、家具の脚は下に行くに従ってほっそりするシンプルなラインで、フェミニンなスタイルにしたい。それが私の希望でした。後にこの家具のスタイルを「ルイ16世様式」と呼ぶようになりますが、本来は「マリー・アントワネット様式」とするべきだと思うのですが・・・


天井も清々しい感じにしたかったので、絵は描かないで白地を多くし、シャンデリアもできるだけシンプルにし、それを下げる部分にリボン装飾をしてアクセントを入れよう。親しい人だけ招待し、儀式はいっさいなし。夫も私の許可なしでは入れない。だからベッドルームは私一人用で、夫のは、なし。子供が生まれらたら3階を子供部屋にしよう。このようにいろいろ構想を練るのは楽しいことでした。この時期はプティ・トリアノンのインテリアのことだけ考えていました。何しろ、私の小さなシェーンブルン城なのだから、愛情の込め方も格別だったのです。

お気に入りの貴族夫人や女官たちと、くつろぐサロンは特に大切。
シンプルで気品あるインテリアにこだわっていました。

シャンデリアもシンプルにし、
フェミニンな雰囲気を出したいので、
天井からリボンで下げることに。

夫はここには泊らないので、
ベッドは私一人用。モチーフはもちろん大好きなピンクのバラの花。

 

正式に王妃になった私の年金は、今までよりずっと多くなりました。ですから館のインテリアだけでなく、周囲に広がる庭園にもお金をかけることができたのです。

私がプティ・トリアノンの城主になったとき、庭園はルイ14世の時代のままでした。つまり、ヴェルサイユ宮殿の庭園と同じように、幾何学様式の堅苦しいものだったのです。せっかく自由な生活を送れると思っても、庭園がこれではと、行動派の私はすぐに動きました。


プティ・トリアノンはフランス式建物だから、その近くにはフランス庭園を少し造る。でも、大部分は自然を重んじるイギリス式庭園にする。それに、ちょっとだけ中国趣味も入れよう。小さい島と小川も造り、その周りは自然らしさが特徴のイギリス式庭園にし、小川には木の橋もかける。人工的な洞窟も欲しい。夜にイルミネーションをともして踊ったり劇を演じたら、きっと幻想的でステキ。見晴台もあった方がいいし、ギリシャ風の神殿もロマンティックでしょう。それは「愛の神殿」と呼ぶことにしよう。館の周囲にはバラをたくさん植えて、その甘い香りがいつも漂うようにしたい。

小川に取り囲まれた小さい島を造って、
その中央に「愛の神殿」を置いてロマンティックに。


洞窟を造るのもミステリアスでいい。
そこではイルミネーョンの中で劇を演じる。

次々に浮かぶアイディアに、毎日浮き浮きしていました。